まちと美術館のプログラム-アートがまちを表現する:愛宕・新橋・虎ノ門編

かつて武家屋敷が立ち並んでいた虎ノ門エリア。各藩邸には故郷の風俗や文化が持ち込まれ、そのいくつかは明治以降もこの地に残されました。リサーチをベースに街の歴史を紐解き、パッチワーク上に埋め込まれたさまざまな地域の記憶をネットワーク化し、新たな虎ノ門のイメージを紡ぎます。この地に埋め込まれた各地の痕跡から、現在に至るまでさまざまな人を惹きつけるこの地の魅力とは。

ネットワークと

パッチワーク

コーディネート:川勝真一(建築リサーチャー、RAD)


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江戸城に近い虎ノ門周辺は武家地として位置付けられていました。そこには旗本や御家人だけでなく、各地の藩邸も存在しており、参勤交代などの移動の制度にともなって、さまざまな地域から、たくさんの人々がやってきていました。この藩邸の内側は、今で言うところの大使館のように、故郷の風習や文化が息づく、飛地のような性格を持っていました。江戸時代の地図を見ると、豊後(大分県南部)、近江(滋賀県)、伊予(愛媛県)、越後(新潟県)などの藩邸が存在していたことがわかります。

そうした痕跡は今も残されていて、虎ノ門の金刀比羅宮は、そもそもは讃岐丸亀藩の京極家が藩邸内に祀っていたものがそのまま庶民に解放され、今に至っています。他にも、新橋の塩釜神社は、元禄八年に仙台藩によって陸奥国一宮塩竃大明神を勧請したのが始まりとされています。

このようにこのエリアには、他所から集まってきたさまざまな記憶や文化が根付いています。

江戸時代全国各地から人やものが集まった虎ノ門。

今でも全国各地からやってきた様々な場所の痕跡が埋め込まれている。

新しく生まれ変わろうとする東京の街の中に、異なる土地の記憶をめぐる旅。

お供をするのは天狗さん。

1860年、芝の愛宕山に集まった水戸藩士らの手によってときの大老井伊直弼は暗殺される。井伊直弼は滋賀県彦根藩の藩主でもあり、現在虎ノ門で呉服屋を営む丁子屋の小林家は、その領内にあり、関係も深かった。暗殺の報をいち早く故郷に知らせたのは、近江商人として活躍していた小林家だったという。

滋賀県東近江市には現在も、小林家の旧家を活用した近江商人郷土館が残されている。そんな東近江に古くから存在する阿賀神社は、別名太郎坊宮と呼ばれ、愛宕山の大天狗太郎坊を祀っている天狗スポットだ。川を挟んで別の集落ではあるが、それでも徒歩圏内。井伊家や小林家の人々もかつて足を運んだかもしれない。

京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山。標高924m。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集め、全国各地にも広がっている。

東京都内で最も高い自然の山である愛宕山は、標高26m。古くから修験道の修行場であったと言われることもある。1603年に将軍徳川家康によって防火の神様として信仰されていた勝軍地蔵(将軍地蔵)を京都の愛宕山から勧請し愛宕神社が創建された。

 信仰の対象であると同時に、周囲を一望できる観光地として親しまれており、山頂には展望茶屋が作られていた様子が見てとれる。

 末社には日本書紀に登場する邇邇芸命を道案内した国津神として知られる猿田彦神と同一神として祀られた太郎坊の宮が存在する。大都会のど真ん中でありながら、今も天狗の影が残っている。

 なお、京都の愛宕山と同様、複数の経路があり、出世の石段として知られる男坂、その横をやや緩やかに上がる女坂、神谷町方面から裏側の斜面を登る山道風の道や、エレベーターで上がるなどどのように登るかで、お参りの経験が変化する。

「片倉小十郎重綱奉納復元絵馬」

京都の愛宕山に祀られる天狗。栄術太郎とも呼ばれ、多くの眷族を従える日本一の大天狗とされている。全国代表四十八天狗及び八天狗の一。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられる。

命がけのお茶はこび

『江戸名所図会』より

現在、私たちが口にする緑茶は、1738年に京都の宇治田原町湯屋谷村で生まれた。この「青製煎茶製法」を開発し、普及に努めたのが、永谷宗円である。彼はこのお茶を携え江戸に出向き、日本橋の茶商山本嘉兵衛によって「天下一」という名で販売され全国に普及することになった。永谷宗円は死後、茶宗明神として湯屋谷に祀られている。

その10代後の子孫が、虎ノ門の近くで現在の永谷園を創業。宇治のお茶と関係のある愛宕山の近くに本社があるところに少なからぬ縁を感じる。

茶葉は熱に弱いため、宇治で収穫された茶葉は茶壷に入れられ、愛宕山に運ばれたと言われている。茶壺を担いでの山道は相当大変だった。実際は、市中にある里坊に預けられていたとの説もある。

一生に一度の金比羅参り

江戸時代になると天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及し、結果金毘羅参りが大流行。金毘羅参りの際には、天狗の面を背負う習俗が生まれた。

戦国時代に、長宗我部氏によって荒廃した境内を整備した金光院院主宥盛は、死の直前に「死して永く当山を守護せん」と神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説がある。今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれ、奥社(厳魂神社)にて祀られている。

歌川広重『東海道五拾三次 沼津 黄昏図』より部分

丸亀藩藩主京極高和が金刀比羅宮(本宮)の御分霊を勧請したことに由来する。江戸時代、金毘羅参りが流行しており、江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月10日に邸内を解放するようになった。今も10日には市がたつなどその名残を残している。大物主神と崇徳天皇を祀る。

香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する。大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社に始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとされる。もしくは、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に、天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承もある。19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されてきた。

こちらには金剛坊など天狗は祀られていないが、表紋の丸金に対して陰紋には天狗の葉団扇が用いられ、また、『大正十二年関東大震災当日、炎々と火が当宮を囲む中、防火に努めていた宮司と職員が空を見上げると、御本殿真上に一群の雲があり、雲上に銀髪でほおに髭をたくわえた翁が大麻で火の粉を払う御姿を拝見した』との伝承も残されているなど、香川の金毘羅宮からの記憶や伝承が混ざり合ってきたことが窺い知れる。

パッチワークのように継ぎ接ぎになったさまざまな記憶を、現在の視点からネットワーク化し、そこから新しいこの街の物語を作り出す。異なる土地の中に自分とのつながり(ネットワーク)を見出す旅に出かけてみませんか。

※写真:川勝真一

※本ページの内容は、ツアーに合わせて独自の解釈を含むものです。諸説あるものや、あくまで推測の域に出ない内容も含んでいるものとしてお楽しみください。

コーディネーター:川勝真一(建築リサーチャー、RAD)

1983年兵庫県生まれ。京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。同大学院工芸科学研究科博士後期課程単位取得退学。建築に関する展覧会のキュレーションや出版、市民参加型の改修ワークショップの企画運営、レクチャーイベントの実施、行政への都市利用提案などの実践を通じ、 建築と社会の関わり方、そして建築家の役割についてのリサーチをおこなっている。現在、大阪市立大学、京都精華大学、摂南大学非常勤講師。主な企画に「アートが街を表現する―循環するコモンズたちの都市―」(森ビル株式会社、森美術館、2018年-2019年)、「PARIS TOKYO - KENCHIKU ARCHITECTURE」(パリ市都市建築博物館、2013年)


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まちと美術館のプログラム「Traveling Inside:ここにある『未知』を旅する」

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